土本武司先生との思い出
ネット検索でここに来てくれた貴方に
元最高検察庁検事、筑波大学名誉教授の土本武司先生が2024年5月9日に亡くなったとの記事が、同年11月18日に報じられた。
私は大学4年生の時に先生の刑事訴訟法ゼミに所属し、大学院でも定年退官までの3年間、指導教官として指導していただいた。
残念ながら、私は現在刑事法の世界で活動しておらず、別の法分野の外縁で活動している不肖の弟子になってしまったのだが、先生は最後まで私を法学徒として扱っていただき、年賀状には「学兄」と宛名に添えていただいていた。
先生の訃報を知った段階で葬儀は終わっており、何度かお目にかかっていた先生の奥様もすでに亡くなっている。加えてご子息とは面識がないため、葬儀はおろか、お線香をあげにいくことすら叶わない状況だ。不肖の弟子なので、ご自宅の蔵書の整理を申し出ることもおこがましい。
そうなると、私ができることは、師匠の偉業を顕彰することくらいだ。
ただし、先生の、他の学者の先生方とは異なる経歴については、他の先生やご本人が文字にされているので、そちらをご参照いただきたい。
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わたしがここに記すのは、上記の記事ではわからない先生の人間性というか、先生はこんな人だったのです、という記録だ。
土本先生に興味を持たれてネット検索に来た貴方だけにそっと教えてあげますね。
大学教授として
土本先生の授業は刑法各論と刑事訴訟法を受講したが、教授法はオーソドックスというか、真面目なスタイルだった。冗談も少なめ。
ただ、検察官に対する圧倒的な自信と信頼があり、刑事訴訟法の授業は「巨悪をどう捕えて裁きを受けさせるか」という視点で行われていた。数年後、弁護士出身の先生の刑事訴訟法の授業も受けたが、「ある日突然あなたが無実の罪で警察に捕まったらどうすればよいか」という180度視点が違う内容で、驚いた記憶がある。
刑事訴訟法ゼミもオーソドックスだった。判例百選をベースに学生が発表し、先生が質問、解説を行うスタイル。
しかしながら、先生は常に学生に対して「やさしさ」を持って対応していた。
学生からの質問、相談には真摯に対応していたし、新入生歓迎行事では結構な年だったのに、ドッジボールをハッスルプレイしていた。
また、ゼミでは中央大学の先生のゼミと合同ゼミ合宿を開いてくれて、ディベート大会を実施した。
しまいには、社会学類の学類長になってしまい、学部の学生みんなの面倒を見ることになってしまった。
大学のポストを取るのは権力闘争の側面もあるものの、私から見れば、仕事が増えて研究時間を圧迫するしめんどくさい仕事なはずなのだ。それでも学類長を引き受けたのは、学生に対するやさしさがあったのではないだろうか。
また、ゼミのコンパでお酒が入ると、「気さくなおじさん」状態で学生に接してくれた。そして、死刑の執行方法や、とある事件の顛末など、守秘義務に反しない範囲でぎりぎりアウトな話もたくさんしてくださった。
ゼミ合宿の晩には、とうとう女子学生と社交ダンスを踊り始めてしまい、さすがにこれには参加者みんなで爆笑した。
なお、筑波大学には模擬法廷があるのだが、模擬法廷の設置には土本先生の多大な尽力があった。法服や備品は先生が入手した本物が使われていた。
そしてなぜか裁判長席には、日本の法廷では使われない木槌が置かれていた。先生お茶目だよなあ。
海外との架け橋
先生はオランダの大学の客員教授をしていて、夏休み期間はずっとオランダに滞在していた。
大学院生として先生の研究室にいたときの私に、「オランダに家を持っているんだ」と写真を見せてくれて、オランダのお菓子をふるまいながらオランダでのゆとりある生活についてたくさん話をしてくれていた。また、オランダからの留学生を受け入れた年もあった。
そんな縁もあり、学類長の任期が終わった後、学内の留学生センターのセンター長を務めることになった。さらに、社会学類にオランダへの短期留学の制度をつくってしまった。自分の後輩もこれを利用してオランダの大学に行ったのだった。
社会との懸け橋
先生が検察官から大学教授に転身するにあたり、当時の上司から、検察官は自分達の想いを社会に発信することはできないが、大学の教員になった君ならできる、自分たちのかわりに発信して欲しい、という趣旨の話をされたとのことだった。
だからだろうか、先生はテレビや新聞、週刊誌の取材を快く受けて、刑事事件について解説をしていた。
当時、先生は目立ちたがりなのかな?と思っていたが、上記の話を先生から教わり、行動原理に納得できた。
死刑制度をめぐって
先生は、死刑制度については「制度としてある以上、ちゃんと執行しなければならない。ただし、死刑制度について議論はすべき。」という立場であった。元検事なので、前半は納得なのだが、後半は珍しいなと感じた。
さらに、先生は死刑廃止論のグループが主催する催し物に呼ばれ、よく参加し、自説を話されていた。当時大学院生だった私は、(先生は死刑存置論者というわけではないが、先生にとってアウェイな場によく飛び込むよなあ)と不思議に思っていたが、先生はその理由を教えてはくれなかった。
時は流れ、先生は大学を定年退官、私も大学院から離れた2010年、NHK教育で、土本先生が主演の番組が放送された。
それは、先生が死刑制度を考え続ける原点の事件についての独白であった。なぜ死刑制度に関するイベントに出続けていたのかの答えであった。そして、私には、先生の遺言のように思えて仕方なかった。まあその後もピンピンしてご活躍されていたので、私にはそう見えた、というだけの話だ。
翌2011年、先生は大阪地裁の裁判に証人として出廷し、絞首刑は憲法36条で禁じられた「残虐な刑罰」にあたると主張されていた。
こぼれ話
・検察官時代には部下がやってくれたことのほとんどを大学では自分でやるしかなった。コピー機が使えない先生のために、大学の事務の方が、紙に「コピー機の使いかた」を書いて、教員用のコピー室に掲示したとのこと。私が先生の研究室にいたときには、コピー機を使いこなしており、自分専用のコピー機を導入していた。
・「検察官から大学に来て、自由を得られたが収入は半分になった」とコンパで冗談めかして話していた。
・セブンイレブンのざるそばが好きで、よく買いに行かされていた。おそらく、ジャンクフードを食べずに大人になったのであろう。
・先生は狭心症持ちだった。ニトログリセリンを留学生センター長室に忘れてしまったある晩、大学教員の宿泊施設で発作を起こしてしまい、救助の電話が私にかかってきた。ニトログリセリンを取りに行き、宿泊施設の扉を叩いて守衛さんに開けてもらい、部屋から廊下に這い出してきた先生にニトログリセリンを渡して事なきを得た。そして入院。
大学附属病院の個室に入院していたが、個室に大学の事務の人が来て事務仕事をさせられていた。しかし先生もさるもの。私に研究室にあるビールを病室に持ち込ませていた。
しかし後日病室に行くと、先生がはずかしそうに「病院の先生にビールを見つけられてしまった。ビールを捨てるか病院を出ていくか、と言われた」ということで、ビールを研究室に持ち帰ってほしい、と言われた。
おわりに
はたして、これで先生の人となりの一端でも伝えることができたのであろうか。
意識的に私と土本先生の話は書かなかった。
先生と私は指導教官と学生という立場であったが、師匠と弟子としての暮らしもあった。不詳の弟子として刑事法の世界から離れた後でも、結婚式では来賓挨拶もお願いしたし、自分がとりまとめた書籍の巻頭言を書いてもいただいた。
先生がF15に搭乗した話やご自宅での奥様と先生の関係性など、先生との思い出はいくらでも湧いてくるのだが、それらは私の心の中にしまっておいて、世の中の皆様にぜひ知っていていただきたいことは書けたかなあ?
この文章を先生に真っ赤に添削してもらいたいが、今となっては叶わぬ願いだ。